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水木しげる先生の昭和史を読むと、当時の庶民の生活がいかに厳しいものだったがよくわかる。

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僕は漫画家の水木しげる先生が好きで、先生の作品を良く読み返しています。先生の代表作と言えば『ゲゲゲの鬼太郎』や『悪魔くん』などを思い浮かべる人もいると思いますが、僕は個人的に先生の人生と歴史が学べる『昭和史』という作品がとても好きです。

 

昭和史は水木先生が生きてきた大正から昭和の終わりまでの先生の人生と、戦前~戦後の日本の歴史をざっくりと知ることができる名著だと思うので、水木先生が好きという人だけでなく「大正~昭和の日本ってどんな時代だったんだろうか?」ということを知りたい人にはおススメです。

 

そんで、この昭和史をまた久々に読み返していたんだけど、水木先生の子供時代のエピソードを見ていたら「ほんとに今の時代に生まれてよかったなぁ。」っていう庶民の苦しいエピソードがたくさん出てくるんですよね。

 

正直ゲームでいったらベリーハードモードって言っていいぐらい大変で、みんなとんでもなく貧乏な生活をしていたし、当然社会保障も整備されてます。それに比べると現在の日本で暮らす人はイージーモードに感じてしまう、そんな出来事が盛りだくさんなわけです。

 

では、いったい水木先生の子供時代とはいったいどんな時代だったのでしょうか?今回はこの昭和史の第一巻からいくつか印象的だったエピソードを紹介していきたいと思います。

 

失業者だらけだし、働いても給料が出ない

まず印象的だったのが、失業者が多いってことだけじゃなくて「働いているのに給料が出ないことがあった。」というエピソードです。これ?恐ろしくないですか?働いてるんですよ。

 

いくらブラック企業があるとはいえ、今の時代働いてて全くお金が払われないってことはほぼほぼないはずです。でも昭和初期の時代にはそんなことが普通にあったみたいです。まぁ、水木先生の場合、子供時代は鳥取県で過ごしていたので、東京など都会であればまた違ったのかもしれませんが。

 

しかも驚くことに学校の先生とか役場の職員といった、今でいえば「安定した公務員」と言われるような人たちですら、給料がもらえないわけです。普通に考えて「メシとか家賃とかどーすんの?」って思うじゃないですか?

 

その辺りは言及されてないんだけど、おそらく貯金を切り崩したり相当節約してなんとか過ごしていたはず。今の時代と比べるとあまりにも違い過ぎてビビりますね。僕がこの時代の人だったら絶対に生きのびれる自信がありません(*_*;

 

子供たちも相当苦しかった

大人も職が無かったり、給料が払われないわけですから当然そのしわ寄せは子供たちにもいきます。

 

水木先生の通っていた学校では、お昼の時間になると家から持ってきた弁当を食べるわけですけど貧乏な家の子は弁当を作る余裕すらないんですね。

 

そのころは昼メシにも

弁当を持ってこない子がいた

そういう子はみんなが上手そうに食べているとき

本を読んでいるふりをしていた

引用元:『昭和史』p187~p188 著者 水木しげる 講談社

 

今でこそ小学生は給食を食べますが、当時は給食なんてものはないわけですからね。昼ご飯を食べなければ午後の授業に使うエネルギーも限られるだろうし、栄養面とか体の成長にも影響したでしょう。いやはや、大変な時代ですね。

 

さらに、僕がメチャメチャ衝撃的だったのが次のエピソード。

 

水木先生の近所に豊という少年がいたんです。ある日、水木先生は早朝に母親に起こされます。するとその豊少年が父親に棒のようなもので殴られているんですね。

 

それは父親から船の飯たきに行くよう言われたのを豊少年が拒否してたからなんです。

 

めしたきは沖に出た時船員のめしをたく仕事で

貧しい小学生とか漁師見習いの子供がやっていた

引用元:『昭和史』p190著者 水木しげる 講談社

 

とあるように、当時の漁船には必要とされる仕事でした。そんで気の毒なのは豊少年ですよ。父親がすでに一年分の飯たき代を受け取っちゃってたんですね。つまり、豊少年は「絶対に船に乗らなければならない」という状況だったわけですよ。ちなみにこの時の豊少年は六年生で、彼は五年生の時から働いていたそうです。

 

考えてみてください。たかが12歳の少年が荒れ狂う海を漁船に乗せられちゃうんですよ?メチャメチャ危険じゃないですか?しかも、当時の漁船なんか今みたいに立派なものじゃないわけです。下手すりゃ命の危険だってあるわけですね。

 

そんな危険な仕事なんだけど、豊少年は働かざるを得なかった。なぜか?それは「家が貧乏だったから」それに尽きます。

 

そんで、ここからがさらに衝撃的。

 

間もなく船は嵐にあって豊は死んだ

引用元:『昭和史』p191著者 水木しげる 講談社

 

今なら大問題なんだけど、当時はこんなことがまかり通っていたわけですね。豊少年の家はその中でも特別貧乏だったのかもしれないけど、それにしても12歳でそんな過酷な仕事をしなければいけないなんてと思うと、本当に気の毒に思います。

 

それがたかだか80年とか90年近く前の日本なんですよね。なんか彼らの貧困ぶりを読んでいると、今の時代の日本を生きている自分って「とりあえずなんとかなるかなぁ。」とポジティブに捉えられてしまいますね。

 

逆に僕が水木先生たちの時代に生まれていたらあっけなく命を落としていただろうなぁっていう確信に近いものがあります(笑)

 

貧しい農村では娘すら売った

これは今の時代であれば確実に人権問題になりますが、当時の農村などはあまりにも生活が貧しく、娘さんたちを売ることで、なんとか生活の足しにしていたんだそうです。

 

今の時代を生きる僕のような読者であれば「ひどいな‥‥‥。」と思うものですが、当時の農家の人たちの生活ぶりを見ると何も言えなくなってしまいます。

 

なんせ農家の人たちの生活が、とんでもなくしんどいんですよ。食べ物は稗(ひえ)やどんぐりなどで味付けは味噌がないから塩を少し入れるのみ。

 

しかも、農作業などで重宝された馬は南向きの日当たりのいいところに住まわせて、人間は北向きのワラの万年床に寝ていたそうですから、どれだけ困窮した生活を送っていたかということがよくわかるでしょう。馬よりも人の方が劣る環境で過ごしていたわけですから。

 

ほんとに生きるか死ぬかというギリギリの生活を送る中で、娘を売ってしまう。その娘たちは娼婦や酌婦、女給や芸者などになったそうですが、当然そんなことをするのは嫌だという人もいて、そういう人は自ら命を絶ってしまうこともあったそうです。

 

読みながら思わずため息が出てしまいますね。時代が時代だけにしかたがない部分もあったとはいえ、当時の日本の人たちはこういう生活を強いられていたのかと思うとちょっと胸が苦しくなったりします。

 

まとめ

そんなわけで、今回は水木しげる先生の『昭和史』から当時の庶民の苦しい生活の一部を取り上げてみました。予想以上の苦しい暮らしぶりに驚いた人も多いのではないでしょうか?

 

今後もこの昭和史を通じて、当時の日本の人たちの生活や水木先生の人生を通して学べることなどを中心に書いていければと思っています。

 

特に水木先生の生き方とか、考え方からはたくさんの学びがあると思うので、ちょこちょこ共有していくつもりです(^^)

 

それでは今回はこの辺で失礼します!